歯科医学と一般歯科医療の谷間をうめるもの
—私の歯科医学の哲学ー
要約
只今ご紹介頂きました片山でございます。私が“日常どのような考えで臨床を行なっているかについて、できれば実例をあげて述べてみよ”というご依頼を受けました。
つまり過去35年間の臨床の内容と、それに対する考え方、いいかえれば”お前の行なった歯科医療のフィロソフィー、歯科医学の哲学を述べよ”ということでありましよう。この課題は、現在臨床学課、もうすぐ臨床実習に入られるあなた方に、実社会に行なわれているいろいろな医療の内容について、それがどのような考え方で実践されているかについて、よく見、よく聞き、よく考えて頂くことは、あなた方の将来に必ずや大きく役立つであろうとお考えになっていられるためだと思います。
実は、私も予々そのように思っておりましたので、この際私なりの考えを申し述べてみようとお引き受け致しました。
したがってこの機会を与えられたことに、感謝致しておりますが、さてこれから述べます(歯科)医療とは、(歯科)医学とは何ぞや ! !医哲学については、われわれの受けた専門学校教育では非常に不十分で、ほとんど学習しておりません。
しかし、歯科以外の多くの医科は早くから大学として教育されてきましたが、その(医科)大学においても、講座はもちろん置かれておりませんし、必修の課目としてもごく少ない大学だけにしか講義されていないように聞いております。この長い間の医学としては偏った教育、すなわち医療を科学するだけで、科学としての進歩だけに医療の進歩を求めた考え方、すなわち科学的進歩が社会の医療の進歩につながると考えた政策と、教育と、研究の結果は、学内ですら教わったことと臨床実習との問に、学生自身も理解しかねるようなずれとして表われ、実社会との問には、全く無関係と思われるほどの格差、断絶とさえなってきたものと思われます。
昨今、我々の社会は、医療についてだけでなく、あらゆる部門にわたってその本質が問い返される時期にまで成長してきていると思われますので、歯科医とは、あるいは歯科医学とは、また歯学とは、と問い返してみることは、最も今日的な重要な問題ではないかと思います。
あなた方医学生、医者になるうとしている学生にとって、医学を理解、認識すること、両者の関係について考えることは、最も必要な課題でありますが、それが医学史の全般と各分野にわたる歯科医学の理論と技術を理解修得するだけで足れりとするならば、従来と同様不十分でまちがいではないかと思うのであります。
科学としての医学、医学はまさに科学としてめざましく進歩してはきましたが、しかし社会の医療の内容は、その通り進歩しているとは申せません。
まさにここの所が問題であります。
科学として理解するだけでなく、自分自身の持つ医学についての知識と技術の全体に対し、問い返し、反省することがなければ、つまり医学を哲学することなしには、それは自分の行なう医療につながらないし、その内容の進歩も望めないと思うからであります。このように、私は哲学を全体の学と思いますし、科学は部分をとる学問と思います。
科学はその方法としては分析をとり、哲学はその方法として反省をとると思います。医学は疾病治療のための学問、医療のための学ということができると思いますが、そのためには健康を考究する学問を含まなければなりません。生命を考究する内容も含んでおります。
生物学的なこれらの問題に加えて、予防も健康の維持・増進も含みます。
人間としての健康で、平和な生活を考える学問ともいえます。
となると、科学としてだけでは十分とはいえなくなります。でありますために、まさしく我々は科学する半面,哲学しなければならないと思うのであります。
哲学をもち、社会科学としての見方、考え方が必要となると思います。哲学するためには、あるいは哲学というものは、事実を把握、認識した上でなければいけないと考えております。
つまり私の持つ医の理論と技術のすべてを反省することにあると考えています。
科学するだけでは必ずしも文化の進歩につながらない。
先ほど申したように科学の対象は部分であり、非常に紬分化されている。そしてそれぞれに、確かに前進しています。しかし,おのおのの部分の前進は必ずしも全休の進歩にはつながらない。
なぜか。進歩から外れた方向に進んで行くこともありましょうし、またあってもよいと思います。
それらの前進は哲学することによってのみ初めて進歩に総合することができると思うからであります。
また科学することによって、科学の限界を知らなければなりません。
そのように医学について科学し哲学する、と同時に、その理論と技術を社会に実践する者が医者だと思います。ここで医療に戻ってきましたが、現在の実社会に行なわれている医療の内容は、必ずしも現在の進歩した理論と技術であるとはいえません。
すなわち医学を実際に社会に実践することについては、まだまだ段階が考えられます。まず、医学の社会的実践、すなわち医療は、患者・病人を考えることなしには成り立ちません。
病気としては科学としての医学が十分考えましたが、その医学が病気を持つ病人を対象として行なわれます時、まさにその関係が問題であります。人を対象として行なう技術は、人と人との間の関係の上に立ちます。
このような人と人との間に行なう技術を“仁術”というのだそうです。
ですから医者だけが仁術を行なうとは申せませんし、医者が患者に対して行なう技術は、人間以外の自然界のすべてに向かって行なう技術と同一視することもできません。
人と人との間のつながりを正しく平和に行なうためには、倫理が必要とされます。
専門家と一般人、玄人と素人との間は平等の関係ではない。
専門家としての人と人とのつながりは、より一層高い職業倫理が望まれます。医者と患者の間は、専門家と一般人、健康者と病人、医療を行なう者と治してほしいと願う者、等の関係は平等の関係とは考えられません。
したがって特にきびしい倫理感というか、道義感というか、つまり医道ともいうべきものが必要ということができましよう。
医の哲学はこのような問題をも含みます。経済的、社会的な関係についても考究しなければなりません。
翻って歯科医学は、医学の一分科で、歯牙とその周囲組織、舌、口唇等を含めて口腔全域の機能の健康を回復、保持増進していく等の理論と技術を考究研鑽する学科であります。
口腔とは何か。
生物学的に、あるいは文学的に認識しなければならない。
口は人の顔に一つ付いているもの。
呼吸をする、食物を摂取する、その上に意志発表の言語を発し、表情を表わす。
人として生きていくためだけではなく、人間として暮らしていくために重要な部分と考えなければいけない。
歯の生物学的考究を任務とするだけではないので、したがって歯学という文字には誤解を招きやすい点があるのを注意しなければなりますまい。
一般医学と歯科医学を別な範躊で教育するということは、歯科がある特異な点があって、またそのために非常に広範な学術の修練を要するために、範躊を分けていることについても、十分理解しておく必要があります。そのことについても、私なりの意見を十分聞いてもらいたいと思いますが、ここでしごく簡単にいいますと、歯というものは、自分の力で回復、修復していく能力をもたない特殊な組織であります。まさにこのことが機能回復に重要な問題となり、人工物での修復が治療の重要な位置を占め、したがって医者の任務の中に理工学的知識と技術が大きな問題として含まれてくるのだと思います。
技術が重大で、欠くことのできない特異な分科であります(切って取るだけでは癒らない)。また医学とは疾病治療の学だと考えましたが、自己回復の能力を欠除する歯牙の疾患回復に際しては、治療によって自然回復を助けて元のように質的にも機能的にも回復させることのできる一般医科のようではなく、歯牙を含むわれわれの分野では、特に早期発見、早期治療が必要で、また科学の限界を知るならば、予防こそ絶対重要な特異な分科である点を認識しなければなりません。
また社会にこの点について強力にPRしなければならないし、一人ひとりの常識として定着させる方策についても考究しなければならない特異な分科であることを銘記しなければなりません。これらは、そのためにこそ範躊を異にした教育が必要であり、またそのようになったと私は固く信じております。
したがって臨床にあっては現場医師の責務として患者に対する衛生知識の向上を強力に推進して、予防はもちろん、病気の再燃、再発を防止し、人工で修復、回復した治療効果の良好な状態を長く存続させるための患者自身の暮らしの中でのメインテナンス、患者の療養法を厳密に指導し、確実に実行させることも治療と同様あるいはそれにも増して努力を必要とする重大な任務であることを決して忘れてはならないと思います。
まずこのように考えて日常患者に接しておりますが、要約して一口に申しますならば、われわれは歯を守る者、口腔の諸臓器あるいは口腔の器官の健康を回復し、良好な状態を守り通す役目を持っていることからして、どこまでも歯を守り通す、つまり早まって抜き去るようなことは許されないし、次第に悪化する疾患を見逃すことも許されません。
患者白身の暮らしの中での、口腔衛生の実践の指導監督を受け持ち、また治療については口腔全域、全機能に少しの悪影響を加えるような方法も許されません。それが私の根本的な立場といえます。つまり不適合なバンド冠等は一切することはできません。これらを私は35年間の臨床に守り続けてきました。
次に症例を見て頂きますが,以上述べましたようなフィロソフィーの上に立っての医療であることを見て頂きたいと思います。
スライド(図1〜17)
ご覧のようなこの患者の主訴を要約すれば、次のようなものでした。
「全部抜いて総義歯でなければどうしても駄目でしようか。」
「自分の歯で噛むようには戻せないでしようか。できればそうしてほしいが、2年で駄目になるのだったらば諦めます。」
「従来は約5年目ごとに大修理してきた。だから5年は持たせてほしい。」丁度、昨今このケースを私が処置した後5年経過したので、処置前の状態(すなわち以前の処置が5年たった時の状態)と、私の処置後5年経過後の現状とを比較してご覧頂くことによって、どの点がその差を生み出したかについて考えて頂く比較検討に好都合と思ったので、このケースを選んだわけであります。
スライド[図1〜17]
清潔好きという婦人であつたが、口腔内は図1のような状態で、ブラシの当てすぎは歯槽膿漏を起こすと聞いていたことを忠実に守つたという。
メインテナンス、その他口腔衛生等の指導は受けたことはない。臼歯バンド冠、ブリッジとその離脱、前歯全部および開面冠による樹脂床ブリッジが装着され、下顎前歯3〜3のブリッジは右下3の開面冠唇側離脱し、唇舌動揺幅5ミリ程度、図2に示す。
支持組織の状態は、カラーフィルムとレントゲンにより示す通りで、全残存歯盲嚢深く、歯槽骨吸収、排膿、動揺甚だしく、下顎前歯は含嗽を命じた際自然脱離した。図1 図2 図3
図4 図5 図6
図7 図8 図9図10 図11 図12 図13
図14 図15 図16 図17図18 図19 図20
図21 図22 図23
図24 図25 図26図27 図28 図29
図30 図31 図32症例2(この稿では省く)
以上2症例について私の行なった医療内容を見て頂いたわけですが、結果からすると2種類の内容の異なる医療について見て頂いたということになりましよう。
現代医学を大学教育として受けながら、医者として社会の医療実践の場に立った時、歯科医療の本質的な、根本的な考え方に立つことを避け、自分の使命を脇にゆずり、置き忘れ、患者の常識的な、したがって安易な医療につくことは、簡単に安直、大量生産的な安易な日常臨床の濁流にみずから身を投げ、おぼれ去ろうと計るようなもので、そのような医療の陰にかくれた害毒、為害作用についてよく知っていながら、それを言わず、知らせず、医学と医療の間の矛盾に立ち向かい、両者の谷間を埋める努力をしようともせず、それらをすべて社会の仕組みのせいにしているとするならば、その結果残るものは、昨今問題になっているチクロの件や、あらゆる公害の問題等と似ているといえないでしようか。
どうかこの辺のところをよくお考え下さい。
そして、これが一般だとまではいえないまでも相当多数で、そのうえ社会的に有力者である先輩の行為であり、また常識として定着しているものと仮に考えたならば、あなた方の今あるべき姿をひっさげてのこれからの日常は決して生やさしいものということはできません。
その苦しみがどのようなものであり、あったかについても、我々先輩の傷あとをよくよく調べ、これに対する防御の方策を考究することも、これから暫くの間の重要な学修課題とも考えるのであります。
今後機会を得て、これらのことについてもお話し合いのできることを希望して、この時間の講義を終わることにします。